乳がん全摘手術体験記

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私の乳がん体験記を綴ります。

乳がんには癌のタイプによって抗がん剤を使用しないでホルモン治療を行う場合があります。

癌になったから必ず抗がん剤を服用するわけではありません。

乳がんのサブタイプによって治療方針が変わってきます。

この記事に書かれている内容

胸にしこり癌の恐怖と機能不全家庭の結末

2022年10月、胸に硬い塊が指に触れた。

下着をつけるときに一瞬だけ感じたものだった。

ん!? これはおかしい。 瞬時に直感で私はわかった。

あの恐怖は今でも忘れない。

そのころ私は心の中で自由になりたいと思ってた。

子育ては年中無休、年中無給。 家事も全部私。

知っている人も多いだろうけど 私は両親に虐待されて育ったため、親と絶縁し援助はなかった。

お金を稼ぐこと以外のすべてを私がやっていた。

学校対応も、近所からの嫌がらせ対応も私が全部背負ってきていた。

何のために結婚したのか。

何のためにこの家に住んでいるのか。

何のために子どもを産んだのか。

私に甘え、強い口調で接してくるわが子を前に、 私は何のために生きているのか。

何もかもわからず、全てを投げ出して 一人になりたい。

そう思っていた矢先のことだった。

癌告知後の伝え方家族や親せき仕事関係者にどう伝えたかと夫の反応

  胸にしこりがあると気づいてから数週間、 私は一人で悩んでいた。

これはきっと癌だろう。

このまま放置して私が死んだとしても きっと誰も悲しまない。

そう思ってた。

夫へどう伝えるべきか。

子どもたちへどう伝えるべきか。  

息子が集団暴行によって転校してからはじまった近所からの落書きや噂話、 全く対応しない学校、教育委員会、警察関係者の対応に悩みすぎた結果の癌。 (この話の詳細はこちら)  

長年、我慢に我慢を重ね、他人の顔色をうかがい、他人のことを優先し、 自分を大切にしてこなかった結果による癌。

私は自分の胸にできたしこりについてはそう考えている。

  けど、これは結果として私を傷つけてきた人たちの思うつぼだと思った。

私が不幸になればなるほど、相手にとっては蜜の味。  

なんて残酷な世の中なんだとあの時思っていた。

しこりがあることをどう伝えればよいのかわからなかった。  

10月中旬のある日、夫が2階から降りてきた。

きっかけは何だったのかわからないけど 少し話す機会があった。  

「右胸にかたいしこりがある。多分癌だと思う」とだけ夫に伝えた。

「え?」となった。

私は服をずらし夫にしこりを触らせた。

「・・・・・」

「早く病院に行って」と言われた。

そして、夫は「このままではいけない。」といい、私を両手で包み込んだ。

 

乳がんのしこりが硬くて痛い!乳がん検診で誤診された私の体験談

 

いざ乳腺外科の予約へ

  乳腺外科に電話する勇気がでなかった。

「病院には電話はしたの?」と。

夫からはすぐに病院に電話をするように言われた。

癌だったらどうしようという気持ちと、癌なわけないと思いたい気持ちと両方だった。

仕事中の夫からのLINE

病院には電話したの?と仕事中の夫から聞かれた。

「してない」と答えると、 「早く電話して、予約日教えてね。

会社休んで付きそうから」と。  

夫は仕事人間なので、仕事中にLINEがくることは今までなかった。

私が渋っていることが気づかれているぐらい、しつこい。

今までにないぐらいのしつこさだった。

あまりにも「病院に連絡しな」と言ってくるので仕方なく連絡した。

乳がん受診まで3か月

  「予約がとれるのは3ヶ月先です」と病院からいわれた。

そこまで待つなら、比較的すぐ予約がとれる乳がん検診でいいだろうと、検診の予約を入れた。

コロナ禍でマンモグラフィーしか検診項目はなかった

検診はマンモグラフィーしか実施されなかった。

超音波や触診は検診項目にはなかった。

だからしこりがあることも医師に相談ができなかった。

  検診が終わり、自宅に戻ってきてからも、やっぱりしこりが変だ、なんかおかしいという気持ちがどんどん膨れ上がっていった。

乳がんの検診結果が出る前に乳腺外科の診察を!

  夫からの強い口調による一言があった。

「検診結果が出る前に病院に行け。検診じゃなくて受診しな」と。  

診察まで3か月かかるって病院から言われたのに・・・。

と思ったけど、夫の言葉と様子に圧倒され予約の電話をかけた。

案の定、「予約が取れるのは3か月先です」とのこと。

乳腺外科の受診は予約が混んでいる

「検診を受けたのなら、結果が出てから受診するか考えてもいいんじゃないですか」と電話越しで受付から言われた。

「しこりが硬く、これは普通じゃないと夫からも言われているので予約をいれてもらえませんか」と言った。

「急を要するようなものではないとおもいますが、お待ちいただけるならこの日にお越しください」と2週間後の予約を渋々入れてもらえた。

いざ診察へ

  3時間以上待って診察室に入った。 まずは触診。

しこりがあるけど大丈夫だよ

「しこりあるね。大丈夫だと思うけど、一応超音波とって帰ってね」と医師に言われエコー検査をして帰った。

外で寒い中待っていた夫は結果がわからなくてかわいそうだった。

  結果は1週間後。 1週間たち、また診察室へ。

針生検をすることに

  「しこりの形がなんかあやしいから、今すぐ細胞を取る針生検をします」と医師が言った。

誤診

1週間前「大丈夫だと思うけど」って言ったよね?なんで?と思った。

思ったけど、やけに冷静な自分がいた。

「お願いします」とその場で針生検を受けた。

  芸能人の小林麻央さんのブログで予習していた通りの検査だった。

乳がんの針生検は細胞を採取するときにかなり大きなバチンという音とともに採取される。

小林麻央さんが言っていたことはこれかと思った。

麻酔がされてるとはいえ、胸の中をいじられている感覚はあった。

怖かった。

胸ではなくわきの下までエコー検査

検査の最後に乳腺外科の医師がわたしのわきの下にエコーの機械をスライドさせた。

医師は癌だとわかっていたんだろう。

「結果が出次第、今後の日程を決めていきましょうね」と言い、医師はそこを立ち去って行った。

きっとわたしは癌なんだ

  しこりの部分だけではなくわきの下まで検査されたこと。

結果が出次第今後の日程をと言われた時に、「あぁきっと癌なんだな」と思った。

大丈夫だと思うと言われていたからその日は夫は会社に行っていた。

ひとりで針生検をうけ自宅に帰った。 痛かった。怖かった。しばらく食欲はなくなった。

癌の痛みに耐える日々

それから手術を受けるまで、しこりがある場所は刺すような痛みがあった。

毎日痛かった。 乳がんは痛くないと書かれたサイトとは、私の感覚とは違っていた。

乳がん検診は誤診だった

  そのときに自宅のポストに入っていた乳がんの健診結果。

乳がん検診 誤診
乳がん検診 誤診
乳がん検診 誤診
乳がん検診 誤診

精検不要 腫瘍なし 明らかな良性 異常なし 良性 と書かれた健診結果に

うそつき!と思った。

みんなへ

マンモグラフィーだけではわたしのように腫瘍がうつらないこともあるってこと。

超音波エコーも触診も大切だってことみんなには知っていてほしいです。

わたしみたいにならないようにね。

乳がん針生検から癌告知と入院手術までの流れと遠隔転移検査と同意書サインの時の体験談

 

乳がん針生検から癌告知と入院・手術までの流れと遠隔転移検査と同意書サインの時の体験談を書きたいと思います。 

夫婦でがん告知を受ける

針生検後、夫と一緒に診察室に入った。

主治医は私がドアを開けてから座るまで、私の目を凝視していた。

いつもと様子が違う。主治医は元気がなかったのだ。

きっとわたしは癌なんだとその時わかった。

人ってほんとにわかりやすい。 前日私は夢を見て寝られなかった。

「あなたは癌です」という告知が朝までずっとエンドレスで言われ続けるという夢だった。

寝られるわけもない。

癌告知はあっけない

私が先に主治医の前に座り、夫が私のとなりに座った。

主治医が夫に丁寧な自己紹介をした。

自己紹介が終わった瞬間、「針生検の結果は悪性でした」 と、あっけなく告知をされたのだった。

あーやっぱりか

わかっていたとはいえ、夫婦2人で同じ反応をしていた。

前のめりで座っていた態勢から、後ろに2人でのけぞっていた。

「あーっ(やっぱりか)」そう2人で言った。

あーっという言葉しか出なかった。

針生検を受けた人の9パーセントしか癌と診断されていないと言われている中、 私はその9パーセントの中に入ってしまったんだ。

なんて最悪なと当時思った。  

それでね、どうなったかというと、

強制的に入院手術日程が決定される

主治医は言った。

「手術が先になると思います。 遠隔転移がなければ手術は1月20 日にします。 入院は1月19日です。

お見舞い面会禁止・病院内立ち入り禁止

コロナでお見舞いや手術立ち会いは一切できませんので、旦那さんの連絡先を教えてください。

何かあったら連絡しますから」と。

「今日血液検査をして、明日から全身に転移がないか調べていきましょう」と。

忘れもしない。

いい夫婦の日に、夫婦そろってがん告知。

まな板の鯉

悪性でしたの一言から入院、手術の日程を淡々と説明されたのでした。

いつがいい?とか手術受けますか?とかそんなもの一切なかった。

癌となれば手術!嫌とは言わせないぞ!という感じだった。

そのレールに乗らなければ、助からない。

怖いけど従うしかなかった。 手術を受けるしか選択の余地はなかった。

急に押された癌患者の刻印

どうしてもだめな日を教えてくれと主治医から言われて、娘の学校の音楽会で娘が学年代表でピアノ伴奏をする日がある日だけを伝えた。

それ以外の、友達と遊ぶ約束、出かける用事は主治医に伝えることなど許される雰囲気ではなかった。

この告知の日から私は「癌患者」となった。

夫婦両名でした同意書のサイン。

結婚式のサイン以来だった。

私のしこり発見から退院までの実際の日程

2022.10 自分でしこりを見つける

2022.10.22 乳がん検診

2022.11.1 乳腺外科受診 超音波エコー検査

2022.11.8 針生検

2022.11.22 乳がんと診断

2022.11.25 胸部CT検査 胸部MRI検査 肝臓 胆のう 膵臓 脾臓 腎臓エコー

2022.11.30 全身DWI MR

2022.12.6 針生検による乳がんサブタイプ(ルミナルA)と診断

2023.1.19 入院

2023.1.20 右乳房全摘手術 再建なし

2023.1.26 午前10時退院

みんなへ

こんな日が来るとは想像すらしていなかった。

人なんてどうなるかわからない。

自分の無理の域を超えて頑張ってしまうと私のように病気になります。

だから、意識してゆったりと生活してね。  

乳がんと言われたら全身検査

癌告知を受けてまもなく、全身の検査が始まった。

ちょっと待ってと言う時間はなかった。

痛い検査と初めての検査。恐怖だった。

癌告知後に陥りやすい検索魔

癌の告知を受けてから、時間を見つけては、乳がん 1.4センチ リンパ節転移 余命 再発率 乳がんサブタイプ 治療法などと検索し、ありとあらゆる情報収集をした。

今思えば、癌の大きさも癌のタイプも、癌の再発率も治療法もみんな違うのだから、そこまで調べなくても良かったのかなとも思う。

乳がん遺伝子検査保険適用いくら?

乳がんはBRCA1 BRCA2遺伝子検査というものがあり、遺伝性乳がん・卵巣がん症候群(Hereditary Breast and Ovarian Cancer 以下HBOC)を調べるものです。

乳がんや卵巣がん等を発症しやすくなる遺伝子の有無がわかります。

検査は血液検査で結果が出るまでに私は3週間かかりました。

2020年4月からHBOC検査が保険適用になったそうです。

保険適用の対象者は

  1. 45歳以下の乳がん
  2. 60歳以下のトリプルネガティブ乳がん
  3. 2個以上の原発性乳がん
  4. 第3度近親者内に乳がんまたは卵巣がんを発症した人がいる
  5. 男性乳がん
  6. 卵巣がん・卵管がん・腹膜がんと診断されたことがある
  7. 近親者にHBOCと診断されたことがある

私はこの項目の1番に該当したので保険が適用されました。  

それでも7万円以上支払いました。

病気になるとお金がかかります。

子どもたちが学校に行っている間の昼間の食事を私だけしかいないからと、ふりかけご飯に加工品の肉類しか食べていなかったことが悔やまれます。

食事が体を作るのに、加工品や添加物まみれの食事ではよくなかった。

私の場合は体を大事にしていなかったから癌になったようにも思います。

理由はこれだけではないけれどね。

乳房部分切除か乳房全摘手術かの選択

リンパ節転移、骨転移、遠隔転移はなく、遺伝性乳がん・卵巣がん症候群の検査も陰性と診断されたので、癌ではないもうひとつの胸は切らない選択になりました。

遺伝子検査で陽性だったら、アンジェリーナジョリーのように乳房を両方予防切除するつもりでいましたが。  

検査終了後は乳がんの術式を選ぶように言われました。

部分切除 全摘出手術 どちらがいいか今この場で決めてと言われました。

私の中では全摘出をしたいと意思は決まっていました。

だけど、夫の了承を得ないといけない状況でした。  

私の身体なのに、夫の了承を得ないといけない。

なんで?と思いながらも夫の返答を待ちました。

やはり最初は部分切除がいいと言っていました。

主治医も部分切除でいいよと言っていました。

私の身体は私が決める

だけど、部分切除をした後、毎日1ヶ月以上放射線治療を受けないといけない。

まだ小学生の子供がいて、大型犬も一緒に暮らしている中で、毎日家を空けることはできないと思いました。

冬の寒い時期に毎日大学病院に通うことが良いとも思えなかったです。

どんな感染症にかかるかわからないわけで。

全摘手術を決めた理由

それと、部分切除をした後に放射線治療を受けると、癌が再発したときに、一度受けた放射線治療の部位と同じ部位は2回目は放射線治療を受けられないそうです。

これは私は全摘出をすると決めた後に、ネットで調べて上記のことを知りました。

主治医からはその説明はありませんでした。

部分切除+放射線治療と全摘手術の生命余後は同じだそうです。

でも私は喘息があり、検査で造影剤は使えません。

癌の広がりがどこまで広がっているのか不明な状態で手術を望むことになります。

そのため全摘手術を選択しました。  

夫も私の意見に賛成し手術の日までの一か月弱 癌が広がるんじゃないかと不安になりながらも待ちました。  

癌になる前に戻ることはもうできない

ある時、私は家族の食器を洗っていた。

家族はテレビを見て笑ってた。

それはいつもの日常だった。

私は洗いながらふと自分の人生を振り返っていた。

生まれた時から四肢障害や口唇裂を抱え、誰からも生まれたことを喜ばれないそんな人生だったこと。

その障害をからかわれ毎日教室の真ん中でひとりぽつんとお弁当を食べた中学時代のこと。

息子のいじめ被害で起きた誹謗中傷や近所の嫌がらせに耐えてきた日々のことを。

わたしなにやってるんだろう。

ずっと我慢しかしてこなかったと気づいた。

私をストレス発散のはけ口にしてきた周りの人たちのことを思い出した。

そしたら泣けてきて、涙が止まらなくなった。

基本、私は家族の前では感情はあまり出さないようにしてきた。

特に「泣く」ということはなかった。

だけど、とめどなく流れる涙を止められなかった。

テレビを見ている家族に見つからないように水量をあげ、水の音でかきけした。

癌になる前に戻ることはもうできない。

自分の宿命に抗うことはできない苦しさにひとりつぶされそうになっていた。

食欲がなくなって日に日に頬がこけていく自分の姿をみて、わたし大丈夫かなと思うほどだった。

入院前日に麻倉未稀さんから生きる勇気をいただいた時のこと

当時うれしくて私がツイートしたものです。

このとき気づいていなかったことがあった。

わたしはうれしくてすぐに麻倉未稀さんの曲をYouTubeで検索した。

ヒーローを聴きたくて調べた。

他にどんな曲があるのかなと調べていたら、WHAT A FEELING – Frashdanceという曲に時が止まった。

なぜか

それは私が中学時代いじめにあっていた時期に裸足でこの曲をバックにダンスの授業が長期間あったから。

その当時に学校で踊っていた曲を歌われていた麻倉未稀さんご本人からツイッターで出会い、いいねしてもらえる日がくるなんて。

中学時代のわたしはそんな素敵な未来が来るなんて想像すらできていなかった。

ひとり悩んでいたあの頃の自分に会えたとしたら、「30年後あなたは、この曲を歌っているご本人から生きる勇気をもらえる日が来るよ。」と伝えてあげたい。

過去、辛かった出来事が、いまこの時の喜びのためにあったと思ったら、わたし頑張って生きてきてよかったと思えた。

 

悲しみに振り向いたら明日が見えないよ ~麻倉未稀さんヒーローより~

って本当にそうだと思った。

 

乳がん全摘手術がんばって受けようと思った。

もっと生きたい。

そう思った。

麻倉未稀さんありがとう

麻倉未稀さんあのときは本当にありがとうございました。

心から感謝申し上げます。

麻倉未稀さん

ピンクリボンふじさわ/あいおぷらすのオフィシャルウェブサイト

入院当日

入院から退院までは付添いやお見舞いは禁止の病院だった。

中学生の息子には学校を休まず登校させた。

定期テストが近かったから。

小学生の娘は学校を休み、夫と一緒に入院する病院の前まで来てくれた。

もうこれで会えるのは、最後かもしれない。

 

もうこれで会えるのは、最後かもしれない。

本当にそう思った。

「ママ頑張ってくるね」と泣かずに娘とハグをした。

娘のあたたかさが身に染みた。

本当は手術が怖くて泣きたかった。

誰か代わってと泣き叫びたかった。

でもそんなことをしてもどうにもならないことは分かってた。

平気な顔をして笑顔でふたりと別れた。

PCR検査とセンチネルリンパ節生検

病棟に入るとすぐにコロナの検査があった。

検査結果は夜まででない中、センチネルリンパ節生検のための注射を受けた。

「コロナだったらその場で退院になります。手術は延期です」といわれていたから陰性であることを願った。

センチネルリンパ節生検の青い注射は痛いと聞いていたから覚悟はしていたけれど、注射された瞬間と最中は思っていたほど痛くはなかった。

注射が終わった直後に薬が胸にまわる感覚が痛かった。

コロナ陰性、それが意味するもの

夜七時頃コロナ陰性と判明した。

それは明日手術が行われることを意味していた。

複雑な心境だった。

手術ができるとわかると、夜のうちに肺活量の検査があった。

まだ手術が何時から行われるのか、この時点で知らさせていない。

そんなに若いのにあなた大丈夫なの?

同じ病室には私を入れて4人。

アラフォーは私だけだった。

他の3人はご老人だった。

GUで買ったくまさんのパジャマを持って行ったことを少し後悔した。

GUのくまさんパジャマ

若いのに癌なんてあなた大丈夫なの?と寄ってたかって言われたのだった。

余計なお世話だ。そんなことどうでもいい。

なりたくてなったんでもない。

病院内でも気を遣わないといけないのかとがっかりした。

 

明日はいよいよ手術

一晩中眠れなかった。

緊張もあったけど、巡回の看護師さんが私の顔に懐中電灯を毎回あててみまわるのだ。

寝られるわけもない。

枕もかたくて全然寝られなかった。

次は起きてほしくないけど、次また入院するときは

  • アイマスク
  • 自宅で使っている枕

これは入院の持ち物として必須だと思った。

 

いよいよ手術へ

知らされない手術開始時間

病院の枕がかたくて、眠れないまま手術当日の朝を迎えた。

朝になっても手術が何時から行われるのか知らされない。

通りすがりの看護師を呼び止めて聞いたら、ポケットのメモを取り出し「manaさんの手術は2時からです」と教えてくれた。

なんだ…知ってるんなら早く教えてくれてもいいじゃんか、と思った。

乳がん手術実績の良い病院の内部事情

乳がん手術の実績が全国で何位かに入る大学病院。

手術が受けられるだけ幸せなんだろうけど、 入院するときの病棟説明もなければ、 同室の患者が病室で通話していても誰も注意をしないとか、 無料の大部屋に入れるのは4人だけであとは全員、大部屋でも差額ベッド代がかかるとか。

マジありえんって思った。 私も大部屋でも差額ベッド代がかかる病室に入院していた。 断ったら、何ヶ月も手術まで待ったのに、入院がさらに延期になってしまうと思ったから、受け入れるしかなかった。

2023.1.20 右乳がん全摘手術

手術を待つまでの時間、twitter(X)のみんなから大量の励ましがありました。

娘の絵の先生の仲間から折り鶴の絵やお手紙つきの絵やたくさんの励ましをいただきました。

その節は本当にありがとうございました。 感謝の気持ちをもって生きていきます。  

さらには、当時小5の娘が私の夫に「薄力粉を買ってくる」と一人でかけて買ってきたものがこちら。 娘からのプレゼント コロナ禍で入院患者以外、立入禁止だったので、夫が私の自宅の枕と共にこれを守衛さんに渡してくれました。 これを受け取ったのが手術30分前でした。

死ねない。頑張らないといけない。

私はどこかで「私が居なくなっても誰も悲しまない」と思っているところがあった。

自分の人生を振り返っても、踏みにじられて生きてきた感じで、つらいことが多すぎたから。

だけど、手術当日のみんなからの励ましに「死ねない。頑張らないといけない」と本気で思いました。

正直、こんなにたくさんの人から頑張ってと言われたことはなかったのです。

看護師さんと手術室まで歩いて

予定していた2時からの手術は大幅に遅れ、3時半ごろから手術になった。

看護師さんと手術室まで歩いていき、 名前と生年月日の確認。

キャップを被せられ、上半身を脱ぐように言われ脱いだ。 布団がかけられた。

麻酔医のチャラ男っぷり

麻酔の医師が「やー!緊張してる?」と横から登場した。

軽い感じに救われた。 私の左手の甲に太くて長い手術用の点滴針を刺された。

麻酔の医師が言った。

「麻酔の薬は痛いかな?この針が一番痛いからね。あとは起きたら終わっているからね」と。

私は「麻酔の薬は痛くないです」と答え、 主治医に「私の悪いところ全部取ってね」と言ったあとから意識はなくなった。

生きてる

主治医から「manaさん終わりましたよ」という声に目が冷め、手術が終わったんだとわかった。

目を開けた時、長く眠っていたことがわかるぐらい、周りが眩しかった。

上半身全裸だったのが、手術着を着せられていた。

お医者さんってすごいなと思った。 病室についてすぐ、看護師さんにスマホを取ってもらい、自分の姿を撮影して夫に送った。 生きてる 「生きてる」

朦朧とするなかで、心配している夫に送った。  

そして娘の絵の仲間たちにも、twitter(X)のみんなへも手術が無事に終わったことを報告した。

決意

生きてるって奇跡です。

生かされた残りの人生を大切にしようとこの時思いました。

  生きてかえってきたからには、もう嫌なことはしない。

嫌いな人には会わない。 好きな人とだけ会って、好きなものだけ食べて、好きなことをして生きていくと決めた。

右胸を失うと同時に、私の第二の人生が始まった。

術後の痛みといい加減な看護師の話

手術が終わり麻酔から覚めたと同時に胸の痛みとわきの痛みを感じた。

手術直後の担当看護師だけは正直微妙な人だった。

痛いですと言ったとき「全部取ったのに痛いかな?」と言ってきた。

痛いよ。痛いっすよ。 と思ったけど言うのをやめた。 私は黙ってた。

しばらくしてから黄色い痛み止めの点滴をその看護師が持ってきてくれた。

やっと痛みがなくなってほっとした。

夜、喘息の薬を吸わないといけなかったけど、まだ私は起き上がってはいけないという指示があったので、その看護師が喘息の薬を準備した。

準備している途中、その看護師は私の喘息の薬をひとつ地べたに落とした。

本来なら始末書案件だと思うが、すいませーんで笑ってごまかされた。

すみませんではなくすいませんだった。

退院まで10日ぐらいだから穏便に済ませようと思った。

黙って時間が過ぎて退院できればいいと思ってた。

数えきれないほどの励ましと応援の数々

手術後、朦朧としている中でたくさんの、本当に数えきれないほどの人たちから「お疲れ様」とラインやメールやTwitter(X)のメッセージから私に届いた。

強い痛み止めによるものか、麻酔が残っているのか、気づくとうとうとしてしまって、なかなかお返事ができなかった。

とにかく大量にメッセージがひっきりなしに届いていた。

あの時はありがとうございます。

わたし、一生忘れないと思う。

親や同級生から「し〇!」と言われてきたのに、手術が無事に終わったことをこんなにも喜んでもらえる日が来るとは想像すらできなかったから。

みんなも部屋を暗くして見て!

病室は夜9時が消灯だった。

部屋は真っ暗。

そのとき愛犬のゴールデンドゥードルの散歩をしていた夫からラインが来た。

この写真

星空
真冬の星空

これを暗闇の中で観た時、満天の星空の中にいるような感覚になった。

みんなも部屋を暗くしてみてみてね

夫は星が好きでよく空を見上げている人だから珍しくはないかもしれないけど

とってもきれいで感動したのを覚えている。

術後の苦しみと感謝の気持ち

術後から朝まで頭を絶対上げないようにと言われて、体からたくさんのチューブがでていることもあって寝返りも一度もうてないまま、朝になった。

腰が痛すぎて大変だった。

朝になったら担当の看護師が変わって、とってもやさしい看護師さん(手術室に一緒に行ってくれた看護師さん)になった。

朝食は普通食がでて、 尿管が外されて、 点滴も外してもらえた。

身軽になった私は夫と娘の小学校に「元気です!」と電話した。

電話越しで喜んでいることが声と雰囲気でよくわかるぐらい、娘の小学校の先生たちは騒いでた。

乳がんになって大手術を経験して胸を失ったけど、みんなからの励ましやあたたかさがこんなにもありがたいものなんだと気づけてうれしかった。

 

術後のシャワーは下半身のみOKがでた。

でたけど胸が痛くて一人で着替えてシャワーを浴びるなんてとてもできたもんじゃなかった。

術後3日たって、頭も自分で洗うようにと看護師から言われ、

「誰も手伝ってくれないんだ」と不安になりながらも自分で胸にタオルを当てつつ前かがみで頭を片手で洗った。

入院前の説明では看護師が洗髪してくれるという話だったけど、

実際はそうではなかった。

肝心の乳がん全摘手術後の胸の状態はこんな感じだった。

何十センチあったかな この胸の傷跡・・・

乳がん全摘手術後の写真とドレーン 乳がん手術後のおすすめブラと退院までの話

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